10年という月日

阪神・淡路大震災から今日で10年経ちます。私にとってはこの10年は長いものだったと思いますが、被災者の方々はどう思われているのでしょうか・・・。

10年前、私はまだ小学6年生でした。地震が発生した時は、千葉の片田舎で温々と布団にくるまったまま地震を感じることもなく眠りに就いていました。

連休明けの朝、普段と変わらぬ朝を迎え、NHKのニュースでNHK神戸放送局のあの激震の瞬間の映像を見て初めて地震が起きたことを知りました。
箱の中の画には耐震試験などで使われる設備の実演のような現実感に乏しい揺れが映り、またこの時点での最大震度が直前に起きた「三陸はるか沖地震」と同じだったこともあって、これほどの震災になっているとは思いもしませんでした。

この後数日ほどは、日夜ヘリコプターからの中継などで横倒しになった高速道路の高架橋や歪んだレール、赤々と燃えさかる炎と空を覆わんばかりの煙といった“街だったところ”の信じがたい光景が流され続けていました。


日を追うに従って報道から震災の話題は少なくなり、私自身も時折思い出す程度の出来事とみていました。震災から1年後の1月17日は「ああそういえば今日か」といった程度の認識しか無かったと思います。


震災から2年近く経った1996年の秋、ラジオを聞いていた時に流れた曲、その曲がとても気に入ったことが震災を見つめ直すきっかけになりました。その曲が「YELLを君に!/小森まなみ」でした。
そしてこの曲がラジオ番組「小森まなみのYELLを君に!」のOPだということを知ってこのラジオ番組を聴きたいと思い、せいぜい12時を回るかどうかのタイミングで寝ていた当時の自分にとって深夜2時半というかなり遅い時間帯にやっていた番組をなんとか聴くことができた時、この曲ができた経緯を知りました。
小森さんが震災の時に神戸の放送局で番組を持っていたこと、この曲が震災の被災者を元気づけられる歌になって欲しいという思い、それまでに聴いてきたアニメやゲームから派生してできた類のラジオ番組とは違うこの番組、このパーソナリティーの言葉に胸に来るものがありました。
この歌、このラジオ番組に出会ってから、震災のことに関して注意を払うようになりました。どこかで大きな地震があると被災地は大丈夫だろうかなどと、それまで他人事でいたのが一転して被災者のことを案じるようになり、また震災で被害を受けた地域がどうなっているのか、「復興」はどれほど進んでいるのかなど、今まで気にも留めなかったことが気になるようになっていきました。


どのくらいの時期に、どういった経緯で知ったかもよく覚えていませんが、おそらくこの少し後くらいに同級生の1人が当時阪神圏に住んでいて被災したということを知りました。明るい性格の人だったのでそういうことがあったなどとは全く気付きませんでしたが、その人も外に見せないように振る舞っているだけで確かに“被災”していたのです。


1999年、高校2年の秋、修学旅行で初めて神戸、関西を訪れました。母の実家が山口にあるので通ることはあったのですが、関西に寄ることはなかったので震災から4年経って初めて自分の目で被災地を見ることになりました。
修学旅行で行ったのはポートタワー近辺と北野の異人館の辺り。この辺は街の中心近くということもあり、また観光地なので特に見た目の復興にはめざましいものがあり、あの崩壊した街の光景とは似ても似つかないほどでした。
その北野の街の中にあった小さな写真展。そこにあったのはモノクロの震災当日の写真達。何もなかったかのような街並みとは裏腹にそこにあったのは崩れ落ちた街が確かにあったという証。それは神戸に来て初めて知ることのできた等身大のあの日の記録。


2000年の春にまた神戸と、そして淡路島に初めて行きました。修学旅行では見ることのできなかった場所をいくつか訪ねていきました。
神戸では東遊園地の「希望の灯り」、「慰霊と復興のモニュメント」、そして今は無き「フェニックスプラザ」を訪ね、また淡路島では北淡町の震災記念公園、その中にある野島断層保存館を訪ねました。


そして2001年、神戸大学に合格して神戸に住むようになり、被災地が日常の中にある生活が始まりました。これまで神戸を訪れていた時には見ることのなかった、知らなかった光景が住むようになったことで見えてきました。
未だにプレハブのままの店舗、古くからある街の一角に突然現れる3階建ての立ち並ぶ新築の住宅群、道路の拡幅のために道路と敷地との間が広く取られている家、そして同じ通りにありながら拡幅の余地を残していない家・・・。
区画として、あるいは地区としては復興していると言えるのかもしれませんが、周りとの対比では明らかにいびつな形での復興に思える箇所がいくらか見受けられます。


2005年、震災から10年が経ち、三宮を始めとして震災の傷跡が見えないほど復興したように見える街。しかしいくら立派な道路ができ、建物が建っても、そこに人の温かさがない限り真の復興とは言えないと思います。長田区のように今も人口が震災前の8割にしか及ばない地区、震災前を上回る人が住んでいるがその多くが震災後に建てられた高層住宅などへ余所から移住した人であり、コミュニティが崩壊したままの地区、未だに「独居死」が耐えない復興住宅など、「人の復興」はまだその緒に就いたばかりなのかもしれません。